
九州の企業が「暗黙知」を形式知に変える方法——ベテランの頭の中にある"勘と経験"を組織の資産にする
目次
九州の企業が「暗黙知」を形式知に変える方法——ベテランの頭の中にある"勘と経験"を組織の資産にする
「うちのベテラン技術者が来年定年なんです。あの人の頭の中にあるノウハウが、まったく引き継がれていない。マニュアルを作ってくれと頼んでも、"こればっかりは言葉にできんとよ"と言われる。本当に困っています」
北九州市の金属加工メーカーの工場長からこの相談を受けたとき、私は「ベテランの方の"言葉にできない"という感覚は正直な実感だと思います。だからこそ、暗黙知を形式知に変えるための"やり方"を工夫する必要があります」とお伝えしました。
私はこれまで500社以上の企業で人事に携わってきましたが、ベテラン社員の退職に伴う暗黙知の喪失は、九州の中小企業にとって深刻な経営課題です。特に製造業やサービス業では、現場のベテランが持つ「勘と経験」が品質や生産性の基盤になっています。その暗黙知が引き継がれないまま失われることは、事業の競争力の低下に直結します。
この記事では、九州の企業が暗黙知を形式知に変え、組織の資産として活用するための考え方と具体的な方法を整理していきます。
暗黙知と形式知とは何か
暗黙知の特徴
暗黙知とは、言語化されていない知識のことです。経験を通じて身につけた勘、コツ、判断基準——頭の中にはあるが、文書やマニュアルにはなっていない知識です。
例えば、熟練の溶接工は、溶接の音や火花の色を見て「今の状態が適切かどうか」を判断します。この判断基準は、何年もの経験を通じて身体に染みついたものであり、簡単に言葉にできるものではありません。
営業の世界でも同様です。ベテラン営業は、顧客の表情や声のトーンから「この提案は通りそうだ」「この件は引いたほうがいい」と判断します。この判断力は、多くの商談経験の中で培われた暗黙知です。
形式知の特徴
形式知とは、言語化・文書化された知識のことです。マニュアル、手順書、仕様書、チェックリスト——誰が読んでも同じ内容を理解できる形で記録された知識です。
形式知のメリットは、「人に依存しない」ことです。マニュアルに書かれた手順は、担当者が変わっても同じように実行できます。暗黙知は特定の人の頭の中にしかありませんが、形式知は組織の共有資産として活用できます。
なぜ暗黙知の形式知化が必要なのか
九州の中小企業では、ベテラン社員の高齢化が進んでいます。今後10年で多くのベテランが退職していく中で、彼らの暗黙知が失われるリスクは年々高まっています。
暗黙知が失われると、品質の低下、生産性の悪化、顧客対応の質の低下、新人育成の困難化といった問題が生じます。これらはすべて、事業の競争力に直接影響します。
暗黙知の形式知化が難しい理由
本人が「何を知っているか」を自覚していない
暗黙知の形式知化が難しい最大の理由は、ベテラン本人が「自分が何を知っているか」を自覚していないことです。
長年の経験で身についた判断や行動は、本人にとっては「当たり前」のことです。意識せずにやっている。だから「何を引き継げばいいか」と聞かれても、「特にない」と答えてしまう。
福岡市の印刷会社のベテラン印刷オペレーターは、「色合わせなんて見ればわかる」と言いましたが、若手社員にはまったくわかりません。ベテランが「見ればわかる」と感じることの中に、膨大な暗黙知が含まれているのです。
言語化する手段がわからない
暗黙知の多くは、言語化が難しい知識です。「手の感覚」「音の違い」「雰囲気」——これらを文章で表現するのは容易ではありません。
ただし、すべての暗黙知が言語化不可能なわけではありません。適切な方法を用いれば、かなりの部分を形式知として記録することが可能です。
「教えるのが面倒」「教えたくない」
ベテラン社員の中には、暗黙知を共有することに積極的でない人もいます。「忙しくて教える暇がない」「自分の価値がなくなる」「教わる側の姿勢がなっていない」——さまざまな理由で、知識の共有に消極的なケースがあります。
この問題は、「暗黙知の共有」を個人の善意に頼るのではなく、組織の仕組みとして設計することで解決できます。
暗黙知を形式知に変える具体的な方法
方法1:観察と記録
最もシンプルな方法は、ベテランの仕事を観察し、記録することです。
ベテランの横に若手社員を配置し、ベテランの行動を観察させます。「何を見ているか」「何を判断基準にしているか」「どの順番で作業しているか」を細かく記録します。
ポイントは、「なぜそうするのか」を必ず質問することです。ベテランの行動を表面的に記録するだけでは不十分です。「なぜこの順番で作業するのか」「なぜこのタイミングで確認するのか」——理由を聞くことで、行動の背後にある判断基準(暗黙知)が浮かび上がります。
熊本市の食品メーカーでは、ベテランの製造技術者の作業を3ヶ月間、若手社員が密着して観察・記録しました。「なぜ」の質問を繰り返す中で、ベテラン本人も自覚していなかった判断基準が次々と言語化されていきました。
方法2:動画撮影
言葉にしにくい暗黙知は、動画で記録することが効果的です。
ベテランの作業を動画で撮影し、その動画を見ながらベテラン自身にコメントを付けてもらいます。「ここでこの角度にするのは、こういう理由」「この音がしたら次の工程に進む」——映像を見ながらだと、言語化しやすくなります。
大分市の鉄工所では、ベテラン溶接工の作業を動画撮影し、本人の解説音声を重ねた「技術伝承動画」を制作しました。この動画は新人教育のテキストとして活用され、技術習得の期間が約30%短縮されました。
方法3:対話型の知識抽出
ベテランとの対話を通じて暗黙知を引き出す方法です。
一対一のインタビュー形式で、特定のテーマについて詳しく聞き出します。「この作業で最も気をつけていることは何ですか」「失敗したときの原因として多いものは何ですか」「初心者がよく間違えるポイントはどこですか」——こうした質問を通じて、ベテランの頭の中にある知識を引き出します。
この方法のポイントは、「具体的なエピソード」を引き出すことです。抽象的な話よりも、「あのとき、こういう状況で、こう判断した」という具体的なエピソードの中に、暗黙知が凝縮されています。
方法4:若手との「共同作業」
ベテランと若手が一緒に作業することも、暗黙知の移転に効果的です。
単に「教える−教わる」の関係ではなく、一緒に課題に取り組む「共同作業」の形をとります。若手が困ったときにベテランが助言する。ベテランの判断を若手が間近で見る。この日常的な関わりの中で、暗黙知が自然に伝達されていきます。
佐賀市の建設会社では、ベテラン現場監督と若手をペアで現場に配置する「ペア制度」を導入しています。日常の共同作業を通じて、マニュアルには書けない現場判断のノウハウが伝承されています。
形式知化した知識の管理と活用
ナレッジベースの構築
形式知化した知識は、整理・保管・検索できる仕組みに入れて管理します。
社内のファイルサーバーに専用フォルダを設けるだけでも構いません。「業務マニュアル」「技術ノウハウ」「トラブルシューティング」「お客様対応事例」——カテゴリ別に整理し、必要なときに誰でもアクセスできる状態にします。
定期的な更新
ナレッジベースは、一度作って終わりではありません。業務の変化に合わせて定期的に更新する必要があります。
四半期に1回、ナレッジベースの内容を確認し、「古くなった情報はないか」「追加すべき知識はないか」をチェックする仕組みを設けてください。
新人教育への活用
形式知化した知識は、新人教育に直接活用できます。
「ベテランの知恵」をもとにした教育プログラムは、一般的な研修よりも実務に直結する内容になります。新人にとっても、「この会社のベテランがどう考え、どう行動しているか」を知ることは、仕事のイメージを掴む助けになります。
九州の企業の実例
A社(北九州市・金属加工業・従業員60名)のケース
A社では、ベテラン技術者3名が2年以内に定年退職を迎える状況でした。彼らの技術を引き継ぐため、「技術伝承プロジェクト」を立ち上げました。
まず、各ベテランの業務を洗い出し、「この作業のどの部分に暗黙知が含まれているか」を特定。次に、若手社員がベテランに密着して観察・記録する期間を3ヶ月間設けました。同時に、重要な作業については動画撮影を実施し、ベテラン本人の解説付きの「技術動画ライブラリ」を作成しました。
プロジェクトの結果、約70%のノウハウを何らかの形で形式知化することに成功しました。残りの30%は、完全な言語化が難しい「身体感覚」に関するものでしたが、これについてはベテラン退職後も定期的にアドバイザーとして来社してもらう契約を結んでいます。
B社(熊本市・食品加工業・従業員100名)のケース
B社では、品質管理のベテラン社員が持つ「味覚」「嗅覚」による品質判断のノウハウが課題でした。「この匂いがしたら発酵が進みすぎ」「この色になったら火を止める」——こうした判断基準は、まさに暗黙知です。
B社では、「判断基準カード」を作成するアプローチを取りました。ベテランが品質判断を行うたびに、「何を見たか」「何を基準に判断したか」「OK/NGの境界はどこか」を小さなカードに書き出してもらう。1日5〜10枚のカードを3ヶ月間蓄積した結果、約800枚のカードが集まりました。
これらのカードを分類・整理し、「品質判断マニュアル」として体系化。写真や色見本も添付することで、ベテランでなくても一定の精度で品質判断ができる仕組みが出来上がりました。
ベテラン社員のモチベーションを維持する工夫
暗黙知の形式知化は、ベテラン社員の協力なしには成り立ちません。ベテラン社員が前向きに取り組めるよう、以下の工夫が有効です。
「あなたの知恵を会社の財産として残したい」という敬意を込めたメッセージを伝える。形式知化の作業を「追加業務」ではなく「通常業務の一部」として位置づけ、時間を確保する。形式知化に貢献したベテラン社員を社内で表彰する。退職後もアドバイザーとして関わってもらう道を提示する。
これらの工夫により、ベテラン社員の「自分の知識を後輩に伝えたい」という気持ちを引き出すことができます。
暗黙知の形式知化を組織の仕組みにする
暗黙知の形式知化は、一度やれば終わりの取り組みではありません。組織の中で常に新しい暗黙知が生まれ続けるからです。
「知識を共有することが当たり前」という文化を作り、「ベテランの知恵を記録する」という活動を組織の仕組みとして定着させること。それが、暗黙知の喪失リスクを低減し、組織の知的資産を守る最善の方法です。
九州の中小企業にとって、ベテラン社員の暗黙知は最も価値のある経営資源の一つです。この資源を「個人のもの」から「組織のもの」に変える取り組みは、事業の持続可能性を高める重要な投資だと、私は考えています。
関連記事
制度設計・運用九州の企業が「等級制度」を再設計するときの考え方——社員の納得感と事業成長を両立させる等級の仕組みとは
うちの等級制度、もう10年以上変えていないんです。当時の社長が作ったものなんですが、今の事業内容とまったく合っていない。でも、手をつけると大変なことになりそうで、ずっと先送りにしてきました
制度設計・運用九州の中小企業がジョブ型雇用の考え方を取り入れる方法——「人に仕事をつける」から「仕事に人をつける」への緩やかな転換
東京の大手企業がジョブ型雇用に移行しているとニュースで見ました。うちみたいな50人の会社でもやるべきなんでしょうか。正直、何から手をつけていいかわかりません
制度設計・運用福岡のIT企業がカスタマーサクセス人材を育てる方法——「売って終わり」から「使い続けてもらう」への転換を支える人材戦略
うちはSaaSプロダクトを出して2年になりますが、解約率が高くて困っています。営業は頑張って新規を取ってくるのに、半年で解約されてしまう。穴の空いたバケツに水を注いでいるような状態です
制度設計・運用九州の中小企業が組織の「暗黙知」を形式知に変える方法——ベテランの頭の中にある知恵を次世代に引き継ぐ
田中さんが辞めたら、あの仕事は誰もできなくなるんですよ