
九州の食品メーカーが技術承継を成功させる人事の仕組み——「あの人にしかできない」を組織の力に変える
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九州の食品メーカーが技術承継を成功させる人事の仕組み——「あの人にしかできない」を組織の力に変える
「社長、佐藤さんが来月で定年です。あの漬物の味、もう出せなくなりますよ」
鹿児島県霧島市の食品メーカーで、こんな会話を聞きました。私は500社以上の企業の人事に関わってきましたが、技術承継の問題がこれほど切迫している業界も珍しい。九州の食品メーカーでは、「あの人にしかできない」職人的な技術や感覚が、組織の競争力の源泉であることが多い。しかしその「あの人」がいなくなったとき、組織はどうなるのか。
技術承継は、計画的に取り組まなければ間に合わない。退職の半年前に「引き継ぎをお願いします」と言っても、10年・20年の経験で培われた技術は短期間では移転できません。技術承継は、5年単位の中長期計画で取り組む人事施策です。
九州の食品メーカーが抱える技術承継の危機
九州は食品製造業が盛んな地域です。鹿児島の焼酎・黒酢、宮崎の食肉加工、長崎のかまぼこ・カステラ、熊本の馬刺し加工、福岡の明太子・醤油、大分の干物——各県に固有の食品産業があり、その多くが中小規模のメーカーによって支えられています。
これらの食品メーカーに共通するのは、「人の技術」への依存度が高いことです。機械化できない工程、数値化できない品質判断、レシピには書かれていない「勘と経験」——こうした暗黙知が、製品の品質と差別化を支えています。
しかしベテラン技術者の高齢化は確実に進んでいます。食品製造業の就業者の平均年齢は全産業平均より高く、九州の中小食品メーカーでは「核心的な技術を持つ社員の半数以上が50代後半」という状態の企業も珍しくありません。
宮崎県都城市の食肉加工メーカーでは、「枝肉の目利き」ができるベテランが2名いましたが、1名が脳梗塞で突然退職し、もう1名も2年後に定年を迎える状態でした。枝肉の品質判断は、脂の入り方、肉色、弾力、熟成度を総合的に見極める技術で、10年以上の経験が必要とされます。この技術が失われると、仕入れ品質の安定性が損なわれ、製品の品質低下に直結します。
技術承継が失敗する3つのパターン
パターン1:「引き継ぎ」と呼んで短期間で済ませようとする
退職が決まってから「引き継ぎをお願いします」と言い、3ヶ月で完了させようとする。しかし10年以上かけて身につけた技術は、3ヶ月では伝わりません。結果として、表面的な手順は引き継がれるが、「なぜそうするのか」「この状況ではどう判断するか」という深い知識が失われます。
パターン2:マニュアルを作って終わりにする
「マニュアルを作ってください」とベテランに依頼し、できあがった文書を「引き継ぎ完了」とする。しかしマニュアルに書けるのは「形式知」の部分だけです。食品製造の核心にある「暗黙知」——匂いの判断、手触りの感覚、時間経過の読み——はマニュアルでは伝わりません。
パターン3:後継者を決めずに放置する
「誰に継がせるか」を決めないまま時間が過ぎ、気づいたときにはベテランが退職していた。これが最悪のパターンです。後継者の選定と育成は、少なくとも退職の3〜5年前には始める必要があります。
技術承継の人事的フレームワーク
技術承継を「ベテランと後継者の個人的なやり取り」に委ねるのではなく、「組織として計画的に管理する」ために、以下のフレームワークを提案します。
ステップ1:技術の棚卸し
まず、自社が持つ技術のうち、「特定の個人に依存しているもの」を洗い出します。
- 技術の内容(何ができるか)
- 保有者(誰が持っているか)
- 重要度(この技術が失われた場合の事業への影響度)
- 代替可能性(他の人ができるか、機械化できるか)
- 保有者の退職予定時期
この棚卸しを行うと、「何が危機的な状況にあるか」が一目でわかるようになります。
長崎県大村市のかまぼこメーカーでは、棚卸しの結果、12個の核心技術のうち5個が「1人しかできない」状態であり、そのうち3個の保有者が5年以内に退職予定であることが判明しました。この「見える化」自体が、経営者と現場の危機感を共有するきっかけになりました。
ステップ2:承継計画の策定
技術の棚卸し結果をもとに、「誰が」「いつまでに」「どの技術を」「どのように」承継するかの計画を立てます。
承継計画のポイント:
- 後継者の選定基準(適性、意欲、基礎スキル)
- 承継に必要な期間の見積もり
- 段階的な目標設定(3ヶ月後、6ヶ月後、1年後、3年後にどこまでできるようにするか)
- ベテランの協力体制(通常業務との両立をどうするか)
- 承継完了の判断基準
ステップ3:承継の実行と進捗管理
計画を立てたら実行に移しますが、「ベテランと後継者に任せきりにしない」ことが重要です。進捗を定期的に確認し、問題があれば調整する。人事部門がこのプロセスの「管理者」としての役割を担います。
四半期に1回、ベテラン・後継者・上司・人事の4者で進捗確認ミーティングを行うことを推奨します。「予定通り進んでいるか」「何が難しいか」「追加の支援が必要か」を確認し、必要に応じて計画を修正します。
暗黙知を伝えるための具体的手法
食品製造の技術承継で最も難しいのは、「暗黙知の伝達」です。以下の手法を組み合わせることで、暗黙知の伝達効率を高めることができます。
手法1:「横について見る」期間の設定
後継者がベテランの横について、同じ作業を一緒に行う期間を設けます。この期間は「見て覚える」のではなく、「疑問に思ったことをその場で質問する」ことがルールです。
ベテランにも「作業しながら、なぜこうするかを声に出して説明してください」と依頼します。普段は無意識に行っている判断を、意識的に言語化してもらうのです。
鹿児島県指宿市の黒酢メーカーでは、醸造工程の管理を行うベテランの横に後継者がつく「師弟期間」を6ヶ月間設定しました。後継者は毎日の作業日誌に「今日学んだこと」と「まだわからないこと」を記録し、週1回ベテランと振り返りを行います。
手法2:動画記録と解説
ベテランの作業を動画で撮影し、後から解説を加える。これは暗黙知の「保存」に有効な方法です。
特に効果的なのは、「判断の分岐点」を動画に残すことです。「この生地の状態だったらもう少し寝かせる」「この色になったら火を止める」——こうした判断の瞬間を映像として記録し、ベテラン自身のナレーション(解説)を加えます。
福岡県柳川市の味噌メーカーでは、麹の管理工程を12本の動画(各5〜10分)にまとめました。「麹の表面がこのくらい白くなったら切り返しのタイミング」「この匂いが出てきたら温度を下げる」——こうした感覚的な判断基準を映像と音声で残すことで、後継者の理解が大幅に促進されました。
手法3:「教えることで学ぶ」プロセス
後継者がある程度の技術を身につけた段階で、さらに後輩に教える機会を作ります。「教える」行為は、自分の理解を整理し、言語化する最良のトレーニングです。
大分県臼杵市の醤油メーカーでは、承継の中間段階にある後継者が、新入社員向けの「醸造基礎講座」の講師を務めています。「教えようとして初めて、自分がわかっていないことに気づいた」という気づきが、後継者自身の技術の深化を促しています。
ベテランのモチベーション管理
技術承継において見落とされがちなのが、「教える側」のモチベーションです。
ベテラン技術者は、自分の技術に誇りを持っています。しかし「引き継いでください」と言われると、「自分はもう用済みなのか」「後継者に仕事を奪われるのではないか」という不安を感じることがあります。
この心理的な抵抗を乗り越えるためには、以下の配慮が必要です。
- ベテランの技術と経験を「会社の宝」として明確に認める
- 承継は「押し出し」ではなく「技術の永続化」であることを伝える
- 承継期間中も通常の報酬を維持し、できれば「指導手当」を上乗せする
- 承継完了後も、顧問やアドバイザーとして関わる道を用意する
熊本県人吉市の球磨焼酎メーカーでは、ベテラン杜氏に「技術顧問」の称号と月額5万円の顧問料を、定年後3年間支給する制度を作りました。この制度があることで、ベテランは安心して技術承継に取り組み、定年後も品質の最終確認者としての役割を果たしています。
技術承継と設備投資の組み合わせ
技術承継のすべてを「人から人へ」で行う必要はありません。デジタル技術や設備の導入によって、暗黙知の一部を「見える化」「数値化」できるケースがあります。
温度センサー、湿度センサー、pH計、比色計——こうした測定機器を導入することで、「ベテランの感覚」の一部を数値に置き換えることができます。
宮崎県日向市の干物メーカーでは、塩漬け工程の塩分濃度をベテランが「舐めて確認する」方法から、塩分濃度計による測定に切り替えました。もちろん計器だけでは判断しきれない要素(魚の脂の乗り具合、身の厚み等)はベテランの判断が必要ですが、「塩分濃度」という一つの変数を数値化することで、後継者の判断の精度が向上し、承継の期間も短縮されました。
ただし、設備投資を行う際には「どこまでを機械化し、どこからを人の判断に頼るか」の線引きが重要です。すべてを機械化できるなら人の技術承継は不要ですが、食品製造の多くの工程では「最後は人の判断」が品質の差を生みます。この線引きを間違えると、「機械は導入したが品質は落ちた」という結果になりかねません。
技術承継にかかるコストと投資対効果
技術承継の施策にはコストがかかります。しかしこのコストを「経費」ではなく「投資」として評価することが、経営者への説明には不可欠です。
技術承継にかかる主なコスト:
- 後継者の教育期間中の生産性低下:年間約100〜200万円
- ベテランの指導時間の機会コスト:年間約50〜100万円
- 動画制作・マニュアル整備のコスト:初期20〜50万円
- 設備・計器の導入コスト:50〜200万円(内容による)
- 指導手当・顧問料:年間30〜60万円
合計すると、1つの核心技術の承継に3年間で300〜600万円程度のコストがかかる計算です。
一方、技術承継に失敗した場合の損失:
- 製品品質の低下による売上減少
- 品質トラブルによるクレーム・返品コスト
- ブランド価値の毀損
- 生産効率の低下
これらを合算すると、年間で数百万円から数千万円の損失になり得ます。特にブランド価値の毀損は、取り戻すのに何年もかかる。
「300万円を投資して、数千万円の損失を防ぐ」——この文脈で経営者に提案することが、技術承継への投資を引き出す鍵です。
九州の食品メーカーの技術を次世代へ
九州の食品メーカーが持つ技術は、この地域の食文化そのものです。焼酎の蒸留技術、味噌・醤油の醸造技術、明太子の漬け込み技術、かまぼこの成形技術——これらは単なる製造技術ではなく、九州の歴史と風土が育んだ文化的資産です。
この資産を次の世代に引き継ぐことは、企業経営の課題であると同時に、地域への責任でもあります。
技術承継は地味で時間のかかる仕事です。目に見える成果がすぐには出ません。しかし5年後・10年後に「あのとき始めておいてよかった」と言えるかどうかは、今日の決断にかかっています。
九州の食品メーカーの人事担当者が、この記事をきっかけに自社の技術承継の現状を見つめ直し、最初の一歩を踏み出してくださることを願っています。
もっと深く学びたい方へ
体系的に人事の実践知を身につけたいなら、人事のプロ実践講座へ。
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